6月21日(日)、映画監督で脚本家の神山征二郎さんの講演会を開催しました。

 神山さんは、昨年亡くなられた本の寺子屋コーディネーターの長田さんが最後に望まれた講師です。 タイトルの『一にシナリオ、二に役者』という言葉は映画界で昔から言われているもの。三、四がなくて、五に監督なんて言われるほど、監督よりも大事なものはシナリオや役者だと初めに述べ、自身の監督人生と共に映画に対する思いなどを語ってくださいました。

講演概要

 神山さんは農家の次男坊として生まれ、幼いながらに自分が家を継ぐことはできないだろうと思っていたそうです。その後、日本大学芸術学部映画学科に進み、監督コースで4年間、映画について学びました。在学していた1960年頃は日本映画がピークを迎え、年間入場者数が10億人以上にも上った。テレビが急速に普及すると状況は一変し、映画館の観客数はわずか数年で10分の1近くまで激減する。さらに、在学中に病に見舞われ、映画監督への道は極めて狭き門となったが、自分は監督になることしか考えていなかったと仰っていました。

 転機となったのは、映画監督・脚本家の新藤兼人に自ら手紙を書いたことで、新藤監督が主宰する近代映画協会で助監督として働き始めたことで映画人生が始まった。監督からは「映画は物語であり、物語はシナリオだ。とにかく書きなさい」と教えられた。辞める前の記念として初めて一本のシナリオを書き上げた。それは、自身と同じ農家の次男が故郷を離れ、再び都会へ旅立つ物語だった。映画化はされなかったが高い評価を受け、その才能を認められたことが転機となり、29歳で親子映画運動の映画監督に抜擢され、作品は大きな反響を呼んだ。続く『ふるさと』も高い評価を受け、モスクワ国際映画祭では上映後に満場の拍手を受けるなど、国際的にも成功を収めることができた自分の監督人生の始まり部分にも触れられました。

 また、日本映画界衰退の原因についても持論を述べられ、映画会社は経営悪化の際、最初に脚本家を切り、その次に俳優、最後に監督を整理した。しかし、本来最も大切にすべき創作の中心を失ったことが映画文化を弱体化させたと指摘されました。また、俳優についても持論を述べ、優れた俳優は良いシナリオに出会うことで初めて本来の力を発揮すると語られました。

講演の最後に、自身は85歳を迎えた今も映画制作への意欲を失っておらず、長年温めてきた石川啄木を描く映画の企画を実現したい。映画は莫大な資金と多くの人の力を必要とする芸術であるが、それでも物語を伝える力を信じ、最後まで映画を作り続けたいと締めくくりました。

日時

2026年6月21日(日) 14:00~16:00

場所

塩尻市市民交流センター(えんぱーく) 多目的ホール

講師

神山征二郎(こうやま せいじろう)さん

 1941年岐阜県生まれ。日大芸術学部映画学科に学び、65年、新藤兼人監督の主宰する近代映画協会に参加、同氏や吉村公三郎・今井正らの監督助手として修業を重ねる。71年の監督第一作「鯉のいる村」で文部省特選、76年の「二つのハーモニカ」(文部省特選)で日本映画監督協会新人奨励賞受賞。独立後、83年の「ふるさと」ではモスクワ映画祭最優秀男優賞(加藤嘉)、文化庁優秀映画奨励賞など内外で多数の賞を得た。87年の「ハチ公物語」では山路ふみ子映画賞を受賞、同作品は年間興収ベストワンとなった。88年に神山プロダクションを設立、以後「千羽づる」(ジンバブエ国際映画祭最優秀映像賞)、「白い手」(日刊スポーツ映画大賞監督賞、毎日映画コンクール優秀賞)などで高い評価を受ける。92年、野口英世の障害と母の愛を描いた感動作「遠き落日」の大ヒットでより大きな支持と期待を集めた。93年には、特攻隊員と古いピアノにまつわる追憶の鎮魂歌ともいうべき「月光の夏」が好評で、ロングラン上映を重ねた。

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