11月10日(日)、作家で評論家の関川夏央さんをお招きして講演会を開催しました。
司馬遼太郎が「俯瞰の小説家」「反骨の作家」といわれる理由や、バルチック艦隊との戦いについてもお話をしていただきました。
講演概要
「坂の上の雲」を執筆するために、司馬さんは陸軍省や海軍省が刊行した『日露戦史』の付図の地図を参考にしました。
本来「戦史」は、客観的に自分たちの行った戦争を評価し次の戦いにつなげることが求められる書物ですが、『日露戦史』は戦争の様子が実にわかりにくいものになっていたそうです。その理由は、あまりにも悲惨な戦争だったため、みんなの顔を立てて書かれたから。
そのため司馬さんは、本文ではなく付図を参考にしたといいます。司馬さんにとって付図の地図は嘘をつかない読む価値のあるものでした。付図の地図は事実だけが丁寧に表わされており、これを読み解いていくことで文字の『日露戦史』には書かれていない発見がありました。
1950年代後半、新聞記者だった司馬さんは飛行機から日本を見る企画をたてました。
上空からは日本の近世が作り上げてきた産業の成果を確かめることができる、との持論がありました。この時は実現しませんでしたが、『坂の上の雲』を書き終える少し前から始まった『街道をゆく』につながっているといいます。
当時の小説は西洋文学の影響を受け、内面を暴露する、恥をかく、告白するものが中心でした。しかし、この企画も告白の形をとった所詮自慢に過ぎないと司馬さんは考えていたそうです。
司馬さんは、よく見てよく眺めることを自分の信条とした作家で、無意識のうちに上から眺めて(鳥瞰して)は近世を再評価する、まさに『俯瞰の小説家』だと関川さんはおしゃっていました。
準備に10年ほどかけて、1968年から新聞に『坂の上の雲』は掲載が始まりました。この時代は若者の反乱の時代で、掲載には相当の勇気がいったはずである、と関川さんは言います。
実際、掲載当時は受け入れられずあまり読まれていなかったそうです。暴力を恐れず、時代の空気に逆らう『坂の上の雲』をあえて書いたことは、まさに「反骨の作家」だと関川さんはおっしゃっていました。
「近代史を上から眺め丁寧に俯瞰し、私事を一切書かず自分の目に映ったものを信用する。自分の気持ちさえも信用していない。これが司馬遼太郎だ」といいます。
最後に、「福島原発の事故も戦争の記録と同じで、つぶさに記録が必要だ。それをするのが記者であり文学者である。文学は歴史をつくっていかなければならない、歴史を書いていかなければならない」と結ばれました。
『坂の上の雲』の背景を通して、司馬遼太郎さんの思いや気概、時代を知れた、充実した講演会になりました。
日時
2024年11月10日(日) 14:00~16:00
場所
塩尻市保健福祉センター 3階市民交流室
講師
関川 夏央(せきかわ なつお)さん/作家・評論家
1949(昭和24)年生まれ、新潟県出身。
ハードボイルド作品からノンフィクション作品まで、幅広く執筆。 2001(平成13)年、『二葉亭四迷の明治四十一年』など、明治以来の日本人の思想と行動原理を掘り下げた業績により司馬遼太郎賞受賞。主な著書に『司馬遼太郎の「かたち」』『「坂の上の雲」と日本人』(いずれも文藝春秋)『人間晩年図巻』(全5巻、岩波書店) 『ソウルの練習問題』『海峡を越えたホームラン』(講談社ノンフィクション賞)などがある。

