9/26(日)、信越放送ラジオでレギュラーを務め、エッセイの執筆も行っている堀井正子さんの講演会を開催しました。堀井さんは塩尻市宗賀の洗馬宿に焦点を当て、芥川龍之介が書いた「庭」と洗馬宿との深い関わりについてお話してくださいました。

講演概要

芥川龍之介が書いた『庭』という小説があります。この小説の主人公は宿の本陣・中村という旧家の見事だった庭です。その庭は人の手によって美しく作られたもの。維新後、用がなくなってしまった本陣には収入もなく、庭の手入れも出来なくなりました。それにより人工的に整えられた庭は徐々に自然の力で美しさが崩れていきます。自然が綺麗であればあるほど、人の手が入っていた庭は美が壊されていくのです。この庭の様子から、直接は書かれていませんが、維新後の本陣の衰えが伺えます。
 この庭がある宿ですが、小説の中ではどこにもどこの宿だということが明記されていません。和宮様御下向の際に立ち寄られたということは中山道の宿のどこかだということは分かります。実はこの宿が塩尻市の洗馬宿であり、小説の主人公である本陣中村家の庭は、脇本陣の志村家がモデルだったということが分かっています。
 では、なぜこの庭が洗馬宿の脇本陣志村家なのか。それは伊那高等女学校の先生で俳人井上井月の句を収集していた高津才次郎が残した『高津才次郎奮戦記』に芥川へ直接問い合わせた話が掲載されているからです。井月に関心が深かった高津は、『庭』の一節に井月が出てきたのを見て、芥川にこれが井上井月のことか問い合わせます。そして実際は芥川と親交の深かった洗馬村出身の洋画家小穴隆一氏の家庭に起こった事実を基にしたもので井月のことは架空の話であると返事をもらいました。高津が芥川に直接問い合せをしたおかげで、今私たちは『庭』にでてくる宿が洗馬宿だと思いながら読むことが出来ます。
 先程の小穴隆一の祖父母の家が洗馬の脇本陣志村家でした。志村家の庭の見事さは『善光寺道名所図会』にも載っており、小説『庭』の冒頭と絵を比べてみると同じ庭だと納得できるような部分が多くあります。洗馬宿は中山道にある宿場で北国脇往環善光寺道への分岐点でもあり、とても栄えた宿場町でした。しかし明治維新とともに脇本陣も役目を終えます。小穴隆一の祖父母も家の庭の手入れが行き届かなくなっていったということでしょう。

 話を小説の『庭』に戻しましょう。この庭のある家には母屋と離れがあり、母屋には隠居した両親夫婦が、離れには家督を継いだ長男がいとこ同志の新妻と暮らしています。長男はかんしゃく持ちで妻も隠居もはばかっており、二人の弟も近寄ることはありませんでした。そして、次男は養子に、三男は少し遠い大きな酒屋に勤めていました。
 庭は二年、三年と経つうちに荒廃していきます。その荒廃に合わせたように隠居していた老人が脳溢血で亡くなり、次の年には養子に出した次男が養家のお金を奪って酌婦と逃げてしまいます。そんな中、長男の妻が子どもを産みます。長男夫婦は母屋に移り、空いた離れを土地の小学校の校長が借りたことで庭の有効利用に果物を植えることを勧め、優美な景観を壊してしまいました。秋には庭の裏手の山で山火事が起こり、庭に合った滝の水が絶えてしまったのです。
 さらに、長男が肺病を患い一年後に亡くなります。妻も同じ肺病を患い亡くなってしまいました。このころ三男夫婦が離れに住むことになります。その年に庭にあった四阿が大雪で押しつぶされてしまいました。長男の息子でまだ幼い廉一は、祖母と二人母屋に残され、翌年の春、美しかったはずの庭は濁った池と雑木の原に変わってしまいました。ここまでが物語の上部分になります。
 中からは養家からお金を盗み駆け落ちした次男が家に帰ってくるのです。三男は嫌な顔もしなければ、喜ぶこともなく次男を迎え入れました。このとき次男はたちの悪い病気を患っており、食事をするとき以外には他の家族と顔を合わせる事はありませんでした。しかし、長男の息子である廉一とだけはよく遊んであげていました。
 また春が来て自然の力でますます荒れていく庭。ある日次男は、年老いた母親が廉一に昔のはやり歌を歌っているのを聞いて目を輝かせます。それから次男は数日間土を掘り、それを見た三男が何をしているのか声をかけると「庭をもとのようにしようと思うのだ。」と答え、一生懸命小さな川を作っていたのでした。しかし、病に弱った次男の体では中々庭を元に戻すことはできず、三男の妻から煙たがられたり、母親から心配されていました。そんなある朝、次男は自分が作っていた小さな川の縁に石を並べている廉一を見つけました。廉一は「おれにも今日から手伝わせておくれ。」といい、次男はそれを快諾します。それから年を取った廃人と小さな子どもはだんだんと庭を整えていきましたが、次男の病気は進行し内側から侵されていくのです。病で混乱した次男は、一度掘った池を埋めてしまったり、松を抜いた後に松を植えたり意味不明な行動をしてしまいます。混乱し、疲労していきながらも庭の修復を続け、廉一も手伝いを続けますした。そして、秋が来たとき、おぼろげに庭が浮き上がってきたのです。もちろんそれは昔のように見事な庭とは言えませんでしたが、池は澄んだ水をたたえ、丸い築山を映し、松はもう一度洗心亭の前に枝を差し伸べていました。庭ができると同時に次男は床につききりとなり、秋の末には亡くなってしまいます。ですが、次男は幸福でした。まだまだ直したい部分はありましたが、それでも骨折っただけのことはあったのだ、庭は戻ってきたのだと。亡くなった次男の顔は笑みを浮かべているようでした。次男がなくなった後、廉一はひとり洗心亭に座っていることが多くなりました。いつも途方に暮れたように、晩秋の水や木を見ながら……。
 そして最後の下では、次男と廉一が一生懸命直した庭が、十年と経たないうちに家も庭もすべて破壊されて停車場が立ってしまいました。物語の出てきた中村の本家にいた母親も亡くなり、三男夫婦は事業に失敗して大阪に行ったと書かれています。ここに庭があったことなど誰一人として考えていません。幼かった廉一は東京に出て洋画研究所のキャンバスに向かっていました。研究所の空気は故郷の家と何も関係がありません。ですが、最後の文章で、廉一が制作をしている際に次男のことを思い出す場面があります。寂しい老人の顔は微笑みながら廉一にきっとこう声をかけるでしょう。「お前はまだ子供の時に、おれの仕事を手伝ってくれた。今度はおれに手伝わせてくれ。」廉一は今でも貧しい中で毎日に油絵を描き続けています。三男の噂は誰も聞きません。
 最後は跡形もなくなくなってしまった庭ですが、次男と廉一の努力は無駄ではありませんでした。美しい庭を再びよみがえらせる夢を持ち、そのために働き、人生を終えた次男。その姿を見て、懸命に手伝った廉一の心にも次男の努力と頑張りが暖かく響いています。そして廉一の中で貧しくも絵を描き続ける自分を優しい微笑みで応援し続けてくれる応援者になってくれたのです。次男の人生は無駄ではなかった。廉一の人生は孤独ではなかった。とても素敵なお話の構想だと思いました。記憶の中のものを絵や文章にして残していくことの素晴らしさを感じます。

 小説『庭』を書いた芥川ですが、松尾芭蕉に関心が深く、エッセイの形で『芭蕉雑記』を書いています。この中に「洗馬にて」という前書きのある芭蕉の句を取り上げていますので、少しだけお話させていただきます。

梅雨ばれの 私雨に雲ちぎれ

 この句で芥川は、芭蕉の俗語の使い方に感動します。句から旅情の無限の寂しさを読み取ることができ、俗語を使いながらも優れた句を生み出した芭蕉の力に感動しているのです。この句の私雨は麓は晴れているのに山の上ばかりに雨が降ること、または不意に降る村雨のことをいいます。なお、この句は『松尾芭蕉集1』では「存疑の部」に入っており、真作の可能性のあるもののみを選んで全集に収めた部分です。前書きが芥川の紹介と多少違いますが、この句の他にも洗馬にはたくさんの素晴らしい歴史が残っています。塩尻市のみなさんにはぜひ自分たちの地域に残る素晴らしい歴史の数々に出合い、触れていただき、覚えていってほしいです。

日時

2021年9月26日(日) 14:00~16:00

場所

塩尻市市民交流センター(えんぱーく) 多目的ホール

講師

堀井 正子(ほりい まさこ)さん

1945年山形県生まれ、1967年慶応義塾大学法学部卒業。

東京、横浜で育ち、東京教育大学文学部卒業。東京、沖縄、中国をへて、現在、長野市在住。東京都の高等学校教員を勤め、その後、短大や長野高等専門学校、信州大学等で非常勤講師を勤める。中国では武漢大学の外国語学部日本文学科の講師として1年。現在、信越放送ラジオ「武田徹のつれづれ散歩道」のレギュラーをつとめて30年。そのかたわら、長野県カルチャーセンター、八十二文化財団教養講座、塩尻市広丘公民館文芸サロンなどの講師。信濃毎日新聞の「クレソン」の「ことばのしおり」(2001年から、毎月15日、朝刊の2面)、長野市民新聞リレーエッセイ「こだま」の執筆担当。主な著書に「小説探求 信州の教師たち」「戸隠の絵本―津村信夫の愛と詩」「ことばのしおり」「ことばのしおり 其の弐」「出会いの寺 善光寺」「日々 ことばのしおり」など。

堀井正子さん1
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