8月21日(土)に塩尻市立図書館開館と市民タイムス創刊50周年記念として養老孟司さんの講演会がレザンホールで開催されました。

講演概要

 

 今、日本の人口が減りつつある。減るのは減るで仕方のないことだが、問題なのは、子どもが増えない、若い人が結婚しない、子どもをつくらないという事実で、根本には「子どもはいらない」「ほしくない」というのがあるのではないかと思う。「お金がないから子どもを産まない」というが、これは言い訳にされているだけで、子どもを誰も欲していないのではないか。大人自体が未来に対して希望を持っていないのが根底にあるのかもしれない。

 もう一つ気になるのが、若い人の自殺。若い人の死因のトップになっているのが、生きていても仕方がない、希望がない、基本的に幸せじゃないという思いがあるのではないか。 
 幸せになることは難しいのか?
 どうやったら子どもが幸せになれるのかを大人が本気で考えているか?

 今の子どもには自由がなくなってきている。昔は一日中走り回って、くたびれて、夜になったら眠る。これで十分な幸せだった。
 現代では本当の意味で子どもがいなくなってしまった。どうしてかというと、子どもは大人の準備段階と考えられていて、まだ一人前ではないためできるだけ早く一人前(大人)に近づけようとするから。確かに大人を標準化したら子どもは足りない部分が多く、努力をしなくては、となってしまう。しかし「子ども時代は人生の一部」であり、一人の人間として子どもが生きているその人生も、大人の人生とまったく同じものである。それなのに、早く大人と同じようにさせようと努力を強いる。早く大人になっても、その先にいいことはないとわかって「だったら死んでもいい」と考えてしまうのかもしれない。子どもはいずれ大人になるのだから、子ども時代の幸せを十分に与えてあげたい。しかしながら今は、周りの人が子どもの方を見ていない。夏休みに、子どものいない学校になぜか先生が通って書類の整理をしている。教育制度を誰かが働いて維持しなくてはいけないため、子どもがいない学校で頑張っている。本末転倒。

 今ではどこが甘やかしでどこがちゃんとした訓練か区別がわからなくなってしまった。家庭内でのしつけでも暴力禁止になってしまっているし、大人が子どもの扱い方がわからなくなっている。なぜかというと、やったことがないから。小さいころから親不孝を学んでいない。単に虫を殺すのも「残酷だ」と言ってやらせない。上手にできなくなってしまった理由はもう一つ、頭で考えて計画どおりにやるということが中心になってしまっているからではないだろうか。その典型がAI(人口知能)だ。
 AIが中心の社会になると、社会全体がAIと同じように、「頭で考えて計画をする」という考え方になってしまう。子どもでも、与えた学校に入れて、この学校に行けばどこそこの高校に入れる。そこを卒業すればどこどこの大学に行くことができる。そこらへんの学校を出ればあの会社に就職できる…と親は考える。でも子どもなんて一生懸命育てたところでどうなるかわかったもんじゃない。一生懸命努力しても見当はずれでどうしようもならないのが子ども。どうにかしたいということで入ってきたのが幼児教育である。小さいころからこれをしておけば失敗しない、という考え方。確かに小さいころから訓練した方がいいことがあるかもしれない。でも、それだけでその子が幸せかどうかはわからない。その子にとっては不幸せで、そのうちに、とんでもないことをしでかすかもしれない。こういう世界にどんどんなっていく。

 子どもの人生は子どもの人生。子ども時代も人生のうち。そう考えると10歳くらいまでの子どもの時期に幸せなら人生の何分の一かは幸せな時期、幸せな人生ということになる。どうにかして10歳くらいまでの子どもを幸せにできないだろうか。これを本気で考えたらできるはず。こうすればこうなると頭で考えているが、この考え方に子どもがはまるのか。みなさんの人生がそれにはまるのか。きちんと考えて、予定して、その通りに行くか。考えてみてほしい。

 農業、林業、田んぼなどをやっている人はわかると思うが、簡単に予定がたてられない。たえず自然を正面から見て、相手の存在を認める。そして相手には相手のルールがあるということを認めて、その相手に対処をしていく。対処とは、適当に手を入れるということだが、昔からこうしてきた。でも今は手入れをやめて計画的に計算してやるようになった。人間はもともと色んな原理で生きていけるほど器用ではない。自然原理はつきつめればこうなるとわかるけど、自分の人生はそうじゃない。色んな人生をシミュレーションするわけにいかない。

 子育てもそれと同じこと。生まれてきた子どもには、子どもの論理がある、ルールがある、規則がある。それを手入れしながらやっていくのが補助である。それなのに理屈が入ってきた。来るところまで来たのが現代社会で、その理屈をおしてきたのがグローバリズム、世界共通のルールである。それがどうもうまくいかないのだが、それをみなさんはどうお考えか。つまり、自分がどういう世界を作りたいのか、ということ。そう思った時に私がこの年になって思うのは、子どもが幸せな世界。具体的で、極めて簡単なこと。実現できれば当然子どもの自殺がなくなるし児童虐待もなくなる。

 昔は異年齢集団が遊ぶ姿が見られた。年齢が違う子どもが一緒になっていると病気がうつるなどと怒られる。でも異年齢の大切さは、子どもが育つときに予習復習ができることにある。兄を見て、自分もあの年になるとああいう事ができるんだなとわかる、予習している。下の子を見て上の子も復習できる。それは先生が教える事ではなく、ひとりでに学んでいる事。だからこそ、せめて自分が育っていく間に、同じ地域に住んでいる子どもたちが年齢を問わずに集まって遊んでいる姿を、大人が見守ってあげることが大事なのではないかと私は思う。確かに病気の面からは、免疫のある子とない子が一緒に遊ぶのは具合が悪いことが起こるが、そういうことを全部ひっくるめて何が子どものためか、みんなが本気で考える社会にしていただけたらと思う。

 これからの社会はAIの世界である。医療現場ではすでに進んでおり、データ化されたものを見るのが「診察」になっている。ずっとカルテばかりを見て患者の顔を見ない医者ばかりである。データ化しないと診てくれない。

 他にも金融機関では「本人確認」が必要で、本人が目の前にいても書類がないと「確認」できない。会社でも若い社員は仕事で必要なことはデータ化して済ませたい。顔をあわせてやりとりするような面倒くさいこと、つまりデータに入っていない部分はすべて落としたいと思っている。

 データに入っていない部分は「ノイズ」と呼ばれる。AIはノイズを落としてくれる。今や人間はノイズ。現物の人間がノイズになる世界がAIの世界。でもみなさんのデータが全て入っているわけではない。データ化されるのは嫌だと抵抗する人もいるだろうが、そういう人は完全にノイズの塊。データがシステムの中に取り込まれていない人は、たとえ本人であってもそれは本人じゃなくてノイズ。人間がノイズに変わる社会がみなさんの将来の社会だが、これを理想とするなら今のうちにやめた方がいい。人っていうのは、データにならないものの集団だろっていうのが私の意見。

 死ぬとか病気は厄介なものだが、死ぬというのは自分のことではない。病気もそう。個人主義だから自分のことと思いがちだが、全然違う。病気も死も二人称で、親しい人に起こること。自分が死んだら周りに迷惑がかかると思って、生きているうちに整理を始める人がいる。でもこれには賛成しない。自分が死んで子どもや周りに迷惑がかかるのは当たり前のことで、自分達も親が死んだ後そうだった。そいうのをお互い様というのだが、今では人間関係が希薄になってしまった。

 自殺をするのもどこかで自分の命は自分のものと思っているからかもしれない。これはちょっと警戒した方がよいこと。生き死には自分のもののようであって、自分のものじゃない。命そのものも親からもらったもので、誰も好きこのんで生まれてきていないように、死ぬときもひとりでに死ぬしかない。わざわざ自分で死ぬほどのことでもない。「慌てなくても大丈夫、死ぬよ」と言いたい。その辺の教育がだいぶ日本は緩んできている。

コロナウイルス感染症対策を講じる中でのレザンホール開催となり制限も多い中での講演会でしたが、多くの皆さんにご参加いただき、ありがとうございました。

日時

2021年8月21日(土曜日)14:00~16:00

場所

塩尻市市民交流センター(えんぱーく)多目的ホール

講師

養老 孟司(ようろう たけし)さん
東京大学名誉教授

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