出版社「筑摩書房」創立者で北小野出身の故・古田晁にちなんだ講演会です。

「古田晁記念館文学サロン」は、2021年に第37回太宰治賞を受賞した作家・山家望さんの講演会と、古田晁と交流が深かった臼井吉見の長男・臼井高瀬さんの講演会の2部構成で開催しました。

講演概要

第一部

 小説がずっと好きだったが、作家デビューまでは長い道のりだった。これがもう最後だと思って書いた『birth』が第37回太宰治賞を受賞し、作家としてデビューできた。玉川上水の近くに生まれ育ち、太宰の存在も身近に感じていて、そんな太宰の名を冠した賞を受賞しデビューできたのは、率直に嬉しかった。
 作家として、「あいまいな喪失」というものをテーマに扱っている。「あいまいな喪失」とは、「いる・いない」「存在する・しない」このあいだを揺れ動く心の状況を表した言葉。作品ごとに「あいまいな喪失」にモチーフなどを設定して書いている。しかし、自分の小説には新しさがあるわけではなく、驚くべき設定もない。そんな小説を、なぜ書き続け、また、書き続けられるチャンスを与えられているのかということを考えてみたい。
 ハリウッド映画のシナリオなどにも適用されている物語論の考え方によると、世界に数多くある物語は、その構造を分析していくと10種類のパターンに落ち着いてしまうという研究結果がある。しかし、すべての物語は10種類のバリエーションでしかないと言われてもなかなかピンとこない。我々が様々な小説を読んで心が動かされたりするのは、ナラティブ、「語り」や「文章」の力が大きいのではないか。
 私は小説の勉強をするときに、様々な小説を原稿用紙に手で書き写し続けていた。その中で『城ノ崎にて』を書き写したときに、ある驚きがあった。主人公が生き物を殺してしまうシーンがあり、読んだときは、どれだけその生き物が美しかったのかをすごく言葉を尽くして表現していると感じたのに、書き写してみたら「いい色だった」としか書かれていなかった。それだけなのに、こちらは情景描写、風景描写を豊かに想像していた。これがナラティブ、「語り」や「文章」の力だなと思う。
 このような経験から、小説を小説たらしめるのものは「ナラティブ」であり、物語と小説、そのあいだにあるものが「語り」としての文章ではないかと考える。 ぜひ今読んでいる小説や、またこれから手に取る数々の小説が、どうしてこんなに心惹かれるのかと考えるときに、そこにはナラティブ、「語り」の可能性があるのではないかということも思い出してもらえたら嬉しい。

山家先生は、物語論を交えて自身の創作の考え方をわかりやすく語ってくださいました。

第二部

 古田晁と臼井吉見が出会ったのは大正7年、互いに松本中学に入学した12歳の春のこと。そこから、昭和48年10月に古田晁が急逝するまでの55年6カ月にわたる交流があった。
 古田晁に出版事業を勧めたのは臼井吉見だった。そのとき、古田は「出版社を興すこと」「物書きになる吉見を支えていく」という二つを、胸に固く誓ったそうだ。そして古田のアメリカでの就業を経て、ついに昭和15年、筑摩書房を立ち上げる。社名は島崎藤村の『千曲川のほとり』から「千曲書房」としたかったようだが、それだと「せんきょく」と誤読されるかもしれないとのことで、古田の出身・筑摩地村から「筑摩書房」とした。筑摩書房として最初に出版したのが、二人の東大在学時の先輩・中野重治の『中野重治随筆抄』だった。この本が出版された昭和15年6月18日が、筑摩書房の創立記念日となる。やがて戦火が拡大していくなかで書籍に使う紙も統制の対象となり、戦争遂行に役立つ本なら出版しても良いという風潮になっていった。しかし、筑摩書房は戦時中にあっても戦意高揚のような本は出さない奇跡のような出版社だった。
 そして終戦後、自分たちが本当に読みたいものが載っている雑誌、本物の論文と本物の小説を載せようと創刊したのが、月刊雑誌『展望』だった。臼井吉見は編集長を務めながら、コラム連載「展望」も執筆した。ここが、吉見の執筆人生の始まりだった。
 『展望』には宮本百合子の『道標』や大岡昇平の『野火』など数々のベストセラーが掲載されたが、やはり何といっても太宰治の『人間失格』だろう。太宰治と筑摩書房の関係は、ひとえに古田の尽力が大きい。古田は実は本はあまり読まなかった人で、その作家が「何を書くか」よりも「良い奴かどうか」ということが第一だった。古田は一度相手を気に入ると、その相手の知り合いまでも支援を惜しまなかった。
 しかしその後、『展望』は売上げを落としていき、昭和26年9月をもって休刊となる。その頃の筑摩書房は、社員への給与や作家への原稿料の支払いが滞るなど、経営的にも厳しかった。当時出版社は丙種産業とみなされ銀行は融資をしてくれず、古田はマチ金まわりの心労で酒に溺れるようになっていった。ある日、朝酒に溺れて出社しない古田についに吉見も激怒し、「絶交だ!」と言ってそれから筑摩書房に出社しなくなった。その後筑摩書房は、吉見の発案で『現代日本文学全集』全100巻に取り掛かり、これの編集会議で古田と吉見も和解。『現代日本文学全集』はたいへんよく売れ、会社は経営を盛り返していった。昭和39年には『展望』復刊、昭和40年には太宰治賞を設立した。昭和41年、古田は60歳のときに社長を退き、会長となった。その会長職も7年目の春に、今年度限りで退き小野で隠棲するという決意を示した。
 その半年後、昭和48年10月9日、臼井吉見が当時『展望』に連載していた『安曇野』の最終稿を書き終わり、古田にそのことを電話で報告すると、古田はたいそう喜んで一席設けようと言った。しかし、吉見がせめて活字になってからと言って、『展望』12月号に載ってからにしようという話になった。同月29日、古田は上野で信州を舞台にした映画『朝やけの詩』を観た帰りになじみの店で酒を飲み、その後胸が痛いといってタクシーで筑摩書房の社員に自宅まで送られる途中に帰らぬ人となった。急を聞いて駆け付けた吉見は、古田の遺体にすがって大号泣した。外にいた人にまで聞こえたというから、とても悔しかったのだろう。
 当時、古田は病を患って酒を断っていたはずなのに、なぜそこで飲んでしまったのか。映画に映し出される美しい信州の風景を見て、吉見の書いた『安曇野』に思いを馳せたのではないかという気がする。『安曇野』を書き上げて、吉見も一人前の物書きになった。かつての「出版社を興す」「物書きとなった臼井を助ける」という二つの誓いを100%やり通した。あとは思い残すことなく小野で隠棲できる、それが嬉しかったのではないかと思う。
 翌年、『安曇野』の出版記念パーティーが開かれた。盟友・吉見と唐木順三の間の席はずっと空席で、料理や飲み物が運ばれてくるのだが、ついにその席にはずっと誰も座らなかったという。最後に挨拶に立った吉見が、「今日は古田がちょっと他に行ってるものですから」と言って、しばし目を宙にあずけた。昭和49年6月7日のことだった。

臼井さんは、古田晁と臼井吉見の55年6か月にわたる軌跡を、たいへん鮮やかに語って下さいました。

日時

2022年10月29日(土) 13:30~16:00

場所

塩尻市市民交流センター(えんぱーく) 多目的ホール

講師

山家 望(やまいえ のぞみ)さん

1987年東京都生まれ、東京都在住。武蔵野美術大学卒業、東京藝術大学大学院修了。『birth』で第37回太宰治賞を受賞。

臼井 高瀬(うすい たかせ)さん

1944年東京生まれ。1967年慶応義塾大学工学部卒業。同年近代映画協会新藤兼人監督「性の起源」助監督、以後今井正、吉村公三郎、寺山修司などの助監督をつとめた。1974年初監督「冒険者たち」、以後「火曜サスペンス劇場」「NHK特集」などのTV映画ドキュメンタリーなどを手掛ける。2002年女子美術大学講師。